2017年01月22日

せっかく風邪をひいたので

みなさんおはようございます。

今朝は、体と心の話などさせてもらおうかなと思います。

実は、私、火曜日ぐらいに風邪をひきまして、喉の痛みや若干の悪寒といった症状がでていました。

で、最近このように体調が悪くなった時に、必ず思い出すのがカンポンさんのこと。

過去記事死は人生の最終科目でも書かせていただきましたが、カンポンさんは、若くして事故にあい、全身麻痺に近い状態になられました。しかし、気づきの瞑想と出会い、修行を積まれることによって、絶望の淵から復活されるだけでなく、安寧の境地にまで達せられた方。 

浦崎雅代さんが訳された、カンポンさんの著書「気づきの瞑想で得た苦しまない生き方」、の中の「心の障害にさようなら」にはこう書かれています。

気づきの力がついてきたことにより約1か月後、体と心についての理解が深まってきました。体は体であり、心は心であるということも、よりはっきり観えてくるようになりました。体は心ではなく、心は体ではない。ともにありながらもそれぞれが異なった姿や働きをもち、異なった役割を担っている別物だと見分けることができるようになったのです。

この気づきが起こったとき、心は障害にさよならを告げさせてもらいました。そして、別れを告げた心は気づきとともに歩み始めました。それにより障害を体の側だけに担わせることができ、心は体の状態から自由になったのでした。


私が去年の3月にカンポンさんにお会いした時、カンポンさんの体は末期の癌という厳しい状況でした。そのような状況の中でも、とても澄んでいらしたカンポンさんのお顔は、著書で書かれているように、体の状態から自由になった心の表れだったと思います。

その時のカンポンさんの身体の状態にくらべれば、風邪なんて、取るに足りないほどのものです。

しかし、われわれは、そのちょっとした風邪ぐらいでも体調の不良に追随して心の調子までくずしてしまいがちですよね。

僕も以前はこれは当たり前のセットで分けることができないものだと思っていました。

ですが、カンポンさんの著書を読み、実際カンポンさんにお会いして以来、僕も心と体は別物だということについて考えるようになってきました。

もちろんカンポンさんの域にはまだまだとおーーーーいですがね。

今回も、喉が痛かったり、咳が出たりという体の症状のことは症状として薬にまかせ、「いつよくなるんだろう」とか「授業がたくさんあるのに、もう最悪だー」などという憂鬱な思いがでると、それに気づいて手放すようにしてみました。 

身体の症状は症状として観るようにしていくと、今度は風邪を治そうとしている身体に逆に感謝の念がわいてきたりもしました。 

誰もが迎える人生最期の時は、今までお世話になった身体もその機能を停止します。

その時は、「今までありがとうございました。ゆっくりお休みください」と澄んだ心で身体に声をかけられたらいいな、と思うのであります。

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berialshunnya at 09:30|PermalinkComments(2)TrackBack(0)タイ | 仏教

2017年01月21日

お箸の国の人なのに

お箸の国の人だもの。

なんの宣伝だったかは覚えてませんが、三田佳子さんでしたよね?

僕も一応お箸の国の人なはずなんですが
きちんとしたお箸使いができません。
というのも、うちの両親もその両親もどういうわけかお箸の作法というものに、重要性を感じなかったようで、とってもフリースタイルだったんです。

そんな僕がスプーンとフォークの国に来たもんだから、箸扱いの劣化はとどまるところを知りません。

丼ものにいたっては、すでに箸を使う気なんてさらさらございません


弁解になりますが、タイでは丼を持ち上げて食べることをよしとしないんです。
そうすると箸で食べようもんなら、くちまでの距離が遠すぎて、ボロボロこぼれますし。(ってこれもひとえに僕の箸づかいが下手なだけですね?)

また、味噌汁にいたっては、机の上においたままで箸でいただこうとしたら、具しか食べられませんし。

あ、でも今は日本の牛丼屋さんにもスプーンがおいてあるんですね。

前回の帰国時に見つけて、なあんだ、日本のみなさんも丼にはスプーンだって気づいたんだと思いながら、意気揚々と使っていたのですが、周りの方はみんなお箸。。あのスプーン、外人観光客用だったのでしょうか。。

いつもの記事では、みなさんにも是非オススメですよー、としめくくることが多いですが、その文言、今回だけはやめておきます。

みなさまにはお箸の国の人の伝統を守っていただきたいので

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berialshunnya at 18:00|PermalinkComments(2)TrackBack(0)バンコク | 日本料理

縁は空を超えてpart7

高野山大学院での修士論文作成で出会ったタイの「気づきの瞑想」 

指導教官の井上ウィマラ先生に紡いでいただいたタイへの逆輸入ともいえる空を超えた縁 

今朝はそのシリーズの第7回目。 

前回は、スカトー寺に到着した夜に、プラユキ師に気づきの瞑想を指導していただいたところまででしたね。

さて、スカトー寺の1日のタイムスケジュールはおおよそ次の通りとなります。

03:00  起床
04:00  読経と説法
05:30  托鉢のお手伝い
07:30  朝食
11:00  昼食
17:00  入浴
18:00  読経と説法
19:00  プラユキ師との面談
21:00  就寝

空いた時間には基本的に瞑想を行うのですが、時間の使い方は本人次第です。

また、11:00に昼食とありますが、スカトー寺の僧侶の方は7:30の朝食1食のみ。
朝食の残りを、在家の滞在者が昼食時にもう一度いただくことになります。

さて、今日はこのスケジュールの中の「托鉢のお手伝い」について書いてみたいと思います。

瞑想体験は日本でも可能ですが、この「托鉢のお手伝い」は日本ではなかなかできないですよね。
上座部仏教国ならではの得難い体験であります。

まだ夜が明けきらない5:30に僧侶の方々が3グループほどに分かれて、近くの村落へと托鉢に向かいます。

近くの村落と書きましたが、実際には数キロ離れたところに家が点在しているような感じです。

僧侶の方々は素足で歩かれるのですが、思いのほか歩みが速く、こちらは歩きやすい靴をはいているにもかかわらず、ついていくので精いっぱい。。


托鉢の行列が近づくと、家から住人がでてきて、もち米やおかずを僧侶の鉢にいれ、ひざまずき祈ります。このような喜捨という行為は徳を積む行為としてタイでは深く根付いています。そして僧侶は簡単な読経をあげ、住人の幸せを祈ります。


ここでは当たり前に毎日繰り返されている風景なのでしょうが、大自然の中の村落で行われるそのシンプルなやり取りに心を打たれる日本人も多くいらっしゃるそうです。
普段自分が気に病んでいたことが些末なことであり、実は人生にとって大切なことではないと、直感的に感じられるのかもしれないですね。

我々がさせていただいたお手伝いというのは、村落の人々が鉢にお布施をしたものを、手持ちの布袋に回収していく作業。
村落をまわるごとに、だんだんと重くなっていく袋。お布施をされた方たちの徳を抱かせていただいてる気がして、温かい気持ちになったことを覚えています。

お寺にもどった後の朝食で、さきほど村落のかたが喜捨されたお米やおかずをいただきました。気づきの瞑想の教えに沿って、できるだけ一口一口に気づきをもたせながら食べるようにしてみました。すると、おいしいかそうでないかというだけのいつもの基準を超えた、感謝や幸せという思いが浮かんできたことが驚きでした

さてさて、次回はスカトー寺での瞑想体験について書いてみたいと思います。

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berialshunnya at 09:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)タイ | 仏教